野球部OB会の方々が父のお見舞いに来て下さったこと [父のこと(脳卒中の後遺症・高次脳機能障害)]
2度の脳梗塞と、1度の脳出血を経て、
高次脳機能障害をもつ父は、
横浜出身で、
今は廃校になった市立鶴見工業高等学校の卒業生です。
そこから、横浜国大の工学部に進学し、
途中で海軍航空隊に引き抜かれ、
(当時、日本は空軍はありませんでした)
繰り上がり卒業をしたようです。
B29による空襲で、横浜の自宅が全焼全壊。
家族で北海道に疎開して、
戻ってきたら、
住んでいた土地はなくなっていたそうです。
(摂取されて)
登記簿とかなんとかで、
「ここは、うちの土地や」(あ、これ関西弁)
と主張するような祖父ではなく、
「もうこんな物騒なところにはおられへんなぁ」(これも関西弁ですけど)
と言って、
さっさと、神戸に引っ越しました。
娘(伯母)が嫁いでいたので、そこを頼ったようです。
うーむ・・・
さすが、私の血筋・・・
で、私が現在、神戸に存在するわけですが・・・
父は、
鶴見工業高等学校(地元では鶴工)に在学中に、
野球部を創設したのです。
野球部の創設者、
初代キャプテンでもあります。
初年度は、部員数が足りずに試合ができず、
翌年に下級生の新入部員が入ってきて、
やっと試合ができたそうです。
初試合の浅野中学戦で、
7対0のコールド負け。
悔しかったと、私は何度も聞かされ、耳タコでした。
『あぁ、またその話・・・』
って感じでした。 スミマセンm(_ _)m
そして、父が努力の人であったこと。
例えば語学。
英語や伊語、西語、独語など、
NHKで独学してました。
通勤の時間を語学の勉強に当てていたのを憶えています。
仕事で使えるレベルになるなんてのは、
今、この年になって、やっと、
めちゃめちゃ凄いことだと分かりますが・・・
でもしかし
まだ子どもだった私に、
同じように強いるので、
ほんまに鬱陶しい親父でありました
「私、あほやし。
お父さんみたいにカシコないし」
そう思って、ウザいと思っておりました
(今は深く反省しています m(_ _)m )
(そして、私は今でも英語すらロクに話せません)
で、昨日のこと。
鶴工野球部のOB会から、
6名の方が、父に会いに来てくださいました
横浜から、です です
もう、恐縮してしまって、有難い気持ちがいっぱい過ぎて、
父は、ロクにコミュニケーションをとることも出来ないのに、
わざわざ横浜から来て下さった皆様に、
ほんとうに、どれだけ頭を下げても、気持ちが納まらないくらい・・・。
昨年度末のOB会の総会で、
寄せ書きをしてくださった色紙や、
鶴工の最後の高校野球神奈川大会の試合のDVD、
鶴工の校章のハンカチなど、
気遣いの品々をお持ちくださって、
実際に、父に手渡してくださいました。
(感動のDVDのお話はまた後日・・・)
病院に着かれたときに、
上だけ野球部のユニフォームに着替えてくださって、
父は、その姿を一目見ただけで、声なき泣き顔。
その姿を見て、OBの方々も貰い泣きしてくださって・・・
そういう光景が、幾度もありました
私はもう有り難くて、有り難くて・・・
「先輩が野球部を作ってくれたから、今の私たちがあります」
そう言ってくださいまして、
父はまた、声なく、泣いていました。
そして、初戦の浅野中学の話になり、
父が悔しそうに、また泣き顔になると、
「浅野にはコールド勝ちしました
リベンジは果たしましたよ」
との報告が・・・
父は嬉し泣きをしていました。
その後、鶴工の方々と話していて、
私の長年の誤解が解けた件が、いくつかあります。
ひとつは、頑張りの精神。
これは、『 鶴工魂 』 と呼ばれていて、
入学したときから「頑張ること」を強く諭されていたそうです。
父は、愛校心から、
それをひたむきに守り通した生涯なのでした。
「最後まで決して諦めない」
「なにがなんでも頑張り通す」
それを糧に、現役中も必死で闘っていたのでしょう。
そして、コールド負けの話。
昨日、来て下さった元主将だった方が、
「負けた試合は忘れない」
と言われていました。
ご自分が主将で、
責任を持って、皆を引っ張って行かなければならない思いが、
負けた試合を忘れられないものにする・・・。
そして、
「あの気持ちがあるから、
それ以降の困難を乗り越えることができるんです」
「どんなことがあっても、あのときよりマシって思います」
と言われていました。
父の場合、
自分で野球部を創部し、
キャプテンで、ピッチャー、4番バッター。
初戦にのぞんで、
14才の父の肩にかかる重圧と、
コールド負けをしたことに対する、『悔しい』 という文字では語れない思い。
あぁ、自分が初代キャプテンで、
ピッチャーで4番を打ってた という話は、
決して自慢話ではなかったんだ・・・
(私があほでした・・・)
14才の父が、そのときに背負っていたものを
私は、やっと理解することができました。
決してウザくなかった・・・。
決して鬱陶しくなかった・・・。
父の体験談だった・・・。
父が動けなくなってからの方が、
お互いに対する微妙な誤解は、大きく溶けたと思います。
父も『怠け者』でしかなかった私が、大してナマケモノでもないこと(笑)、
心が通じないと思っていた娘が、結構、優しい心の持ち主であること(笑)
そして、形を変えて、
娘の中に、
『 諦めない 』 精神の 『 鶴工魂 』 が垣間見られること(笑)
(私の場合、ストッパーが効かないという欠点にもなっていますが・・・)
昨日、OB会の方に来て頂いて、
いろんな意味で、ほんとうに良かった
昼食後、
皆さん、すぐに帰路につかれました。
(この昼食のことは、また後日アップします)
ほんとうに、有難かったです。
あんなに心暖かい人たちが,たくさんいてくださること、
悲しいコトですけど、
私、少し忘れていたような気がします。
鶴工の、初代ユニフォームは、
地色や文字など、父に確認を取られていたので、
復刻版として作る予定があるそうです。
もちろん、もう予約しました
父にプレゼントしてあげたいです
しかし・・・
わざわざ横浜から来て下さったOB会の方々に
御礼の言葉が見つかりません・・・。
感激いっぱいの時間でした
父も感無量だったと思います。
最後までお読みくださって、ありがとうございます m(_ _)m
高次脳機能障害をもつ父は、
横浜出身で、
今は廃校になった市立鶴見工業高等学校の卒業生です。
そこから、横浜国大の工学部に進学し、
途中で海軍航空隊に引き抜かれ、
(当時、日本は空軍はありませんでした)
繰り上がり卒業をしたようです。
B29による空襲で、横浜の自宅が全焼全壊。
家族で北海道に疎開して、
戻ってきたら、
住んでいた土地はなくなっていたそうです。
(摂取されて)
登記簿とかなんとかで、
「ここは、うちの土地や」(あ、これ関西弁)
と主張するような祖父ではなく、
「もうこんな物騒なところにはおられへんなぁ」(これも関西弁ですけど)
と言って、
さっさと、神戸に引っ越しました。
娘(伯母)が嫁いでいたので、そこを頼ったようです。
うーむ・・・
さすが、私の血筋・・・
で、私が現在、神戸に存在するわけですが・・・
父は、
鶴見工業高等学校(地元では鶴工)に在学中に、
野球部を創設したのです。
野球部の創設者、
初代キャプテンでもあります。
初年度は、部員数が足りずに試合ができず、
翌年に下級生の新入部員が入ってきて、
やっと試合ができたそうです。
初試合の浅野中学戦で、
7対0のコールド負け。
悔しかったと、私は何度も聞かされ、耳タコでした。
『あぁ、またその話・・・』
って感じでした。 スミマセンm(_ _)m
そして、父が努力の人であったこと。
例えば語学。
英語や伊語、西語、独語など、
NHKで独学してました。
通勤の時間を語学の勉強に当てていたのを憶えています。
仕事で使えるレベルになるなんてのは、
今、この年になって、やっと、
めちゃめちゃ凄いことだと分かりますが・・・
でもしかし
まだ子どもだった私に、
同じように強いるので、
ほんまに鬱陶しい親父でありました
「私、あほやし。
お父さんみたいにカシコないし」
そう思って、ウザいと思っておりました
(今は深く反省しています m(_ _)m )
(そして、私は今でも英語すらロクに話せません)
で、昨日のこと。
鶴工野球部のOB会から、
6名の方が、父に会いに来てくださいました
横浜から、です です
もう、恐縮してしまって、有難い気持ちがいっぱい過ぎて、
父は、ロクにコミュニケーションをとることも出来ないのに、
わざわざ横浜から来て下さった皆様に、
ほんとうに、どれだけ頭を下げても、気持ちが納まらないくらい・・・。
昨年度末のOB会の総会で、
寄せ書きをしてくださった色紙や、
鶴工の最後の高校野球神奈川大会の試合のDVD、
鶴工の校章のハンカチなど、
気遣いの品々をお持ちくださって、
実際に、父に手渡してくださいました。
(感動のDVDのお話はまた後日・・・)
病院に着かれたときに、
上だけ野球部のユニフォームに着替えてくださって、
父は、その姿を一目見ただけで、声なき泣き顔。
その姿を見て、OBの方々も貰い泣きしてくださって・・・
そういう光景が、幾度もありました
私はもう有り難くて、有り難くて・・・
「先輩が野球部を作ってくれたから、今の私たちがあります」
そう言ってくださいまして、
父はまた、声なく、泣いていました。
そして、初戦の浅野中学の話になり、
父が悔しそうに、また泣き顔になると、
「浅野にはコールド勝ちしました
リベンジは果たしましたよ」
との報告が・・・
父は嬉し泣きをしていました。
その後、鶴工の方々と話していて、
私の長年の誤解が解けた件が、いくつかあります。
ひとつは、頑張りの精神。
これは、『 鶴工魂 』 と呼ばれていて、
入学したときから「頑張ること」を強く諭されていたそうです。
父は、愛校心から、
それをひたむきに守り通した生涯なのでした。
「最後まで決して諦めない」
「なにがなんでも頑張り通す」
それを糧に、現役中も必死で闘っていたのでしょう。
そして、コールド負けの話。
昨日、来て下さった元主将だった方が、
「負けた試合は忘れない」
と言われていました。
ご自分が主将で、
責任を持って、皆を引っ張って行かなければならない思いが、
負けた試合を忘れられないものにする・・・。
そして、
「あの気持ちがあるから、
それ以降の困難を乗り越えることができるんです」
「どんなことがあっても、あのときよりマシって思います」
と言われていました。
父の場合、
自分で野球部を創部し、
キャプテンで、ピッチャー、4番バッター。
初戦にのぞんで、
14才の父の肩にかかる重圧と、
コールド負けをしたことに対する、『悔しい』 という文字では語れない思い。
あぁ、自分が初代キャプテンで、
ピッチャーで4番を打ってた という話は、
決して自慢話ではなかったんだ・・・
(私があほでした・・・)
14才の父が、そのときに背負っていたものを
私は、やっと理解することができました。
決してウザくなかった・・・。
決して鬱陶しくなかった・・・。
父の体験談だった・・・。
父が動けなくなってからの方が、
お互いに対する微妙な誤解は、大きく溶けたと思います。
父も『怠け者』でしかなかった私が、大してナマケモノでもないこと(笑)、
心が通じないと思っていた娘が、結構、優しい心の持ち主であること(笑)
そして、形を変えて、
娘の中に、
『 諦めない 』 精神の 『 鶴工魂 』 が垣間見られること(笑)
(私の場合、ストッパーが効かないという欠点にもなっていますが・・・)
昨日、OB会の方に来て頂いて、
いろんな意味で、ほんとうに良かった
昼食後、
皆さん、すぐに帰路につかれました。
(この昼食のことは、また後日アップします)
ほんとうに、有難かったです。
あんなに心暖かい人たちが,たくさんいてくださること、
悲しいコトですけど、
私、少し忘れていたような気がします。
鶴工の、初代ユニフォームは、
地色や文字など、父に確認を取られていたので、
復刻版として作る予定があるそうです。
もちろん、もう予約しました
父にプレゼントしてあげたいです
しかし・・・
わざわざ横浜から来て下さったOB会の方々に
御礼の言葉が見つかりません・・・。
感激いっぱいの時間でした
父も感無量だったと思います。
最後までお読みくださって、ありがとうございます m(_ _)m