お祖母さまの肖像画 [ひねもす日記]
闘病中の父の母、つまり私のお祖母さまの絵が、今も私を見つめています。
お祖母さまは、父が5才のときに亡くなりました。
33才だったそうです。
父は不自由な手を伸ばし、指を3本立て、今でも 「3、3」 と2度、示します。
「母はまだ33才だったんだ」
そう伝えたいのでしょう。
幼い子どもたちを残していく若い母の辛さ、
そして母の枕もとで泣く5才の父。
そして、それ以降の、父の、母親がいない寂しさ。
指を3本立てて、二度うち振るのは、そのすべてを伝えたいのだと思っています。
そのお祖母さまの肖像画が、我が家にあります
伯母の最期を看取った従姉が、伯母の持っていた絵を保管していたのです。
そして、この夏に「あんたが持っとき」と私に譲ってくれました。
横浜の三ツ澤の自宅 がB29の空襲 で焼かれてしまい、
逃げるように父の家族は北海道へ疎開しました。
でも、九州生まれの祖父にとって、旭川は寒すぎたらしい A^ ^;)
そして、伯母が嫁いでいた神戸にやってきました。
その間に、横浜の土地は失ってしまいましたが、
祖父にとってはどうでも良かったらしい…。
想像を絶する空襲の話からすると、そうだったんでしょうね…
だから、お祖母さまの写真は1枚も残っていません。
家ごと、庭まで含めて、丸焼けだったそうですから。
私が小学校の高学年くらいだったかもしれませんが、
横浜の三ツ澤時代の知人が描いたという、お祖母さまの肖像画が見つかりました。
どういう経緯で描かれたものかは、今となっては分かりませんが、
墨で描いたのかなぁ…
白黒の、シンプルな絵です。
美術学校に通った人が描いたような絵でもなさそう。
シンプルです。 ^^;
お祖母さまは、面倒見のいい優しい人で、慕う人が多かったと聞きました
伯母は、70代のころでしたでしょうか、
横浜に出向いたとき、お祖母さまに「世話になった」という人たちから
大歓迎を受けたそうです
もうその人たちのことも分からなくなってしまいました。
伯母が元気な間に、もっともっと話を聞けばよかった…
せめて聞いた話だけでも書き留めておけばよかった…
今となっては何もかも遅すぎて、どうにもなりませんけどね。
父は何にも言わなかったので、
(幼かったから憶えていることが少なかったのか?)
(祖父もなんにも言わなかった。九州男児だったからか?)
私は子どもたちに話してやれることがほとんどありません。
父と、九州の叔父が、仲が悪かったために、
おつき合いはもとより、
九州の親戚の話さえ聞いたことがありません。
お祖父さまは、弟に実家を託して、横浜に飛び出した 放蕩爺さん ですが、(笑)
お祖父さまがすてたものは、実家だけじゃないような気がします。
いとこたちがいろいろと調べたりしていますが、
今となっては、なーんにも分かりません。
かつて、アメリカのドラマで『ルーツ』というものがありました。
黒人少年クンタ・キンテから、奴隷解放までの3代にわたる家族の話でした。
(テーマ曲は何と!クインシ―ジョーンズ!)
私の場合は、そんなにたいそうなもんでも何でもありませんが、
誰も知らない佐賀のことを思うと、ちょっと胸が痛みます。
九州にお友だちが2人もいることが、
お友だちが存在することに加えて、嬉しい気持ちが重なるのは確かです。
時間が出来たら、ちょっと尋ねて、さまよい歩いてみたい佐賀市です
私は、33才のお祖母さまによく話し掛けています。
「おはようございます」から「おやすみなさい」まで。
父のこと、娘のこと、息子たちのこと、などなど。
かつて生きた女性は、今、私の目の前で静かに世を見つめています。
たった、絵、1枚だけなんですけどね・・・
最後までお付き合いくださってありがとうございます m(_ _)m
お祖母さまは、父が5才のときに亡くなりました。
33才だったそうです。
父は不自由な手を伸ばし、指を3本立て、今でも 「3、3」 と2度、示します。
「母はまだ33才だったんだ」
そう伝えたいのでしょう。
幼い子どもたちを残していく若い母の辛さ、
そして母の枕もとで泣く5才の父。
そして、それ以降の、父の、母親がいない寂しさ。
指を3本立てて、二度うち振るのは、そのすべてを伝えたいのだと思っています。
そのお祖母さまの肖像画が、我が家にあります
伯母の最期を看取った従姉が、伯母の持っていた絵を保管していたのです。
そして、この夏に「あんたが持っとき」と私に譲ってくれました。
横浜の三ツ澤の自宅 がB29の空襲 で焼かれてしまい、
逃げるように父の家族は北海道へ疎開しました。
でも、九州生まれの祖父にとって、旭川は寒すぎたらしい A^ ^;)
そして、伯母が嫁いでいた神戸にやってきました。
その間に、横浜の土地は失ってしまいましたが、
祖父にとってはどうでも良かったらしい…。
想像を絶する空襲の話からすると、そうだったんでしょうね…
だから、お祖母さまの写真は1枚も残っていません。
家ごと、庭まで含めて、丸焼けだったそうですから。
私が小学校の高学年くらいだったかもしれませんが、
横浜の三ツ澤時代の知人が描いたという、お祖母さまの肖像画が見つかりました。
どういう経緯で描かれたものかは、今となっては分かりませんが、
墨で描いたのかなぁ…
白黒の、シンプルな絵です。
美術学校に通った人が描いたような絵でもなさそう。
シンプルです。 ^^;
お祖母さまは、面倒見のいい優しい人で、慕う人が多かったと聞きました
伯母は、70代のころでしたでしょうか、
横浜に出向いたとき、お祖母さまに「世話になった」という人たちから
大歓迎を受けたそうです
もうその人たちのことも分からなくなってしまいました。
伯母が元気な間に、もっともっと話を聞けばよかった…
せめて聞いた話だけでも書き留めておけばよかった…
今となっては何もかも遅すぎて、どうにもなりませんけどね。
父は何にも言わなかったので、
(幼かったから憶えていることが少なかったのか?)
(祖父もなんにも言わなかった。九州男児だったからか?)
私は子どもたちに話してやれることがほとんどありません。
父と、九州の叔父が、仲が悪かったために、
おつき合いはもとより、
九州の親戚の話さえ聞いたことがありません。
お祖父さまは、弟に実家を託して、横浜に飛び出した 放蕩爺さん ですが、(笑)
お祖父さまがすてたものは、実家だけじゃないような気がします。
いとこたちがいろいろと調べたりしていますが、
今となっては、なーんにも分かりません。
かつて、アメリカのドラマで『ルーツ』というものがありました。
黒人少年クンタ・キンテから、奴隷解放までの3代にわたる家族の話でした。
(テーマ曲は何と!クインシ―ジョーンズ!)
私の場合は、そんなにたいそうなもんでも何でもありませんが、
誰も知らない佐賀のことを思うと、ちょっと胸が痛みます。
九州にお友だちが2人もいることが、
お友だちが存在することに加えて、嬉しい気持ちが重なるのは確かです。
時間が出来たら、ちょっと尋ねて、さまよい歩いてみたい佐賀市です
私は、33才のお祖母さまによく話し掛けています。
「おはようございます」から「おやすみなさい」まで。
父のこと、娘のこと、息子たちのこと、などなど。
かつて生きた女性は、今、私の目の前で静かに世を見つめています。
たった、絵、1枚だけなんですけどね・・・
最後までお付き合いくださってありがとうございます m(_ _)m
2015-09-23 18:00
nice!(22)
コメント(3)
トラックバック(0)
家に歴史あり ですね。
お父様が5歳のとき亡くなった33歳のお祖母様。
縁もゆかりも無いぼくがこうして知って静かな感動に浸っただけでも、
お祖母様は喜んでられる気がします。
「ルーツ」、クンタ・キンテ、懐かしい(^_^)
by ojioji (2015-09-24 15:26)
ojijiさん
ご訪問とナイス、コメントも頂いて、
ありがとうございます♪
優しいお言葉、重ねて感謝します♪ m(_ _)m
by marilyn (2015-09-25 16:22)
八犬伝さん、ちゃめこさん、makkunさん、大和さん、ゆきちさん、asukamamaさん、猫爺さん、喫茶こじろうさん、かのりんさん、あんれにさん、てんてんさん、ぽちの輔さん、enosanさん、シルフさん、ミラジョボチッチさん、yumiさん、さらまわしさん、okin-02さん、(。・_・。)2kさん、ujiki.oOさん、
ご訪問とナイス、ありがとうございます♪
今後とも、どうぞよろしくお願いいたします。m(_ _)m
by marilyn (2015-09-25 16:27)